仲間の何人かは今、釣から離れざるを得ない状況にある。
仕事、家庭、自らの病気や怪我など、何時もでもそれは誰にでも起こり得る。
私自身もその様な状況に過去何度もなっているし、この先もそう成ることはあるだろう。
それでも、何時かは釣に帰ってくる時があるはずだと信じている。
ある日突然釣に行けない状況に陥る。
そんな時、私はこのブログというものに想いをぶつけた、綴るとという穏やかな感情ばかりではなく、時には書き殴る様に、燃え滾る怒りを念じながらであったり、真逆に無心に降りてくる言葉を添える様に。
釣に行けないという現実、それをそのまま葬り去ることも選べたはずなのに、なぜか釣は向こうからやってくる。
休んでいる時には我武者羅に釣をしていた日々の記憶がふと蘇ってくる。
あのやるせない気持ちは何度味わっても良いものではない。
あの夏も、あの冬も遠い記憶の彼方にあるかもしれないが、それは紛れも無く自ら刻んだ事実、その熱や衝撃やあの鼓動は繰り返されながら経験という幹を作っている。
この想いの矛先は何処に向けるべきなのか、仕事か家族か、酒か。
きっと、何処にも抜け出すことは出来やしない、釣に向いた気持ちは釣に向けるものだ。
時がきてやっと釣に行けたとしても、それで満足という訳にはいかない。
私はきっとただ釣るだけで満足できる類の人間では無いようだ。
最近は10年ほど、出来ていなかった渓流のルアーフィッシングとフライフィッシングに熱を入れている。遅れを取り戻したい気持ちも大きいが、単純に情熱のベクトルがそこにある。
釣に夢中になっている間は文章に向き合う事が出来ない、両立はなかなか難しいものだ。
釣行を記事にするというのもあるが、他人様にメソッドやテクニックを教えるなんて烏滸がましい事も出来ないだろう、私がやるべき事は、きっと私の中にある釣というものを伝える事、言葉として表現する、大袈裟に言えば、表現者としての道なのかもしれない。
ある時期、釣に行けないが故にパソコンに向かい文章を作った。
それに夢中になっている時は、釣に行きたいのに行く事が出来ない葛藤から少しだけ逃れる事が出来たから、それだけでも救われる気がしたというのが本音の部分。
文章力という言葉があるけれど、そんなものは初めから無いし、それで当たり前であると思う。
そもそも、子供の頃から勉強など放り投げて釣ばかりしていた私には文章力など無い。
繰り返し記事を書くうちに少しづつそれが備わったとしたらいいね。程度である。
現在も文章力については全くの自信はなく、これでいいのか?と毎度不安になりながらアップしているのだが、一つ言える事は、ブログを始めた事が切欠で多くの方々と出会い、交流が生まれ、電子書籍まで出してと想像もしない世界がそこには待っていた訳であるけど、物語の始まりは何時も些細なことから、ひょんなことからというものである。
私が言葉にしているのは、魚釣におけるアングラーの心情である、ただ釣りの雑誌やブログ記事で、それはあまり取り沙汰されない。
魚釣における結果主義、所謂、釣果主義という世界観の一つがあ、もちろん私も若いころはそれが全てであり、正義であると疑いもしなかったのだけど。
ある時期からそれもどうなのか?と思い始めて今日に至っている。
釣果主義、その世界ではもちろん過程を問わないし、その背景やそのアングラーの心情なんてどうでも良い事になるから仕方ないと半ば諦めている。
つまりどんだけズルしても、大物釣れたが偉いって世界が残念ながらある。
そんなコマセ臭いルアー釣りには私は興味がない、そこに行くくらいなら本当にコマセを巻いてサビキで夕食のおかずを釣りに行く。
だからこそ本当の魚釣が知りたいと常に思っている。
魚釣りは実は単純だけど、アングラーの想いは複雑。
水辺に行けば、魚がいて疑似餌を投げたその先に魚がいたとしたら釣れる事がある。
釣は言葉にしてしまえば、それだけのシンプルなもので良いはずなのに、たまたま釣れた事に背びれ尾びれが付いてという話になる。
実際に過去に出会った、多くのベテランと言われるアングラーはその真実を知っている。
釣の先に意味も答えも無いなんて知ったら覚え始めた人、夢中で釣をしている人に失礼かもしれないけれど、私が思う真実がそこにあるのだから仕方ない。
恵まれた環境を手にして、与えられた魚釣を続けたとしたら、誰でも名手になれるかもしれないという事だ。
魚釣りは深いけれど、それはどうでも良い事。
実はこの深さを決めてるのは、アングラーである私自身や貴方自身である、浅くでもいいじゃないって思うけど、自分が深いって決めてるものに対して、底が知れてると他人から言われると皆様、腹を立てる。そもそも、釣は自由であるべきだ、どう釣ろうが、何を求めようが誰にも邪魔をされるべきではない。
最近、私にフライフィッシングを教えてくれた師匠の事をよく思い出す。
何時も、少年のように瞳を輝かせて、私にフライフィッシングの楽しさを教えてくれた。
釣に悩み苦しみ、思いどおりにならないとき、釣は楽しむべきものであると師匠の顔を思い出す。
最後に会ったとき、ショートストロークのキャスティングについて教えて頂いた。
それから毎日イメージトレーニングをしている、自宅でも会社でもふと気が付くとキャスティングの事ばかり考えている、次に会える日が来るのか来ないのかはわからないが、その時には自分のものにしておきたいと願っている、だからこそ練習とイメージを繰り返し行うことができる。
ただ一つの言葉がその人のその後を変える事になるやもしれない。
そんな言葉を見つけることができるとしたら、釣はもっと楽しくなる。
タイトルの釣に行けないのか行かないのか?
これを自分に問うとしたら、今は釣に行かないという選択肢を選んでいる。
理由はキャスティングを練習したいからと、仲間が釣りに行けない状況であるからと、あとブログを書きたいからという事。
釣に行けるときは行けるだけ行ったほうが良いに決まっているけど、ただ魚を釣るだけなら行かなくも行っても同じ、釣に行く気持ちを整える時間も時には必要になる。
何時かまた釣に行くために。
釣から離れて何十年時間が流れようと、それは変わらないから戻れる時に戻れば良い。
東洋式疑似餌釣研究所
疑似餌釣(ルアー フライフィッシング)のサイトです。 四季折々の美しく強かな魚達かいる。 情緒纏綿な水辺と人と魚の物語がある。 仲間の笑顔と空の蒼さそこには 忘れてはいけない大切な時間がある。 さて、どう釣りますか?
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