それでも季節は進む

数年ぶりに九州での春を迎えたあと、初夏から晩夏へとたちまち季節は進んでしまった。

釣は変わらず私の傍にあり、河は流れている。


あの頃から何も変わらないか?と聞かれれば変わったものも、変わらないものもあると答えるだろう。今から15年前は子育ての真っ只中、釣に向き合える時間など無く内側にある情熱は逃げ場を失い、どうにか消そうとしても、それは消せない火種の様に再び燃えて、抑えようのないものだった。


釣を知り、釣から離れ、色々なものを手に入れた。

しかし一番大切なものを手放した気がする。

それはきっと熱だ。


釣はそもそも、魚を釣ろうとするだけの行為で成立するのだけど、付加価値を色々と付けてしまいがちだ。あの場所でこのルアーでこんなサイズ凄い魚をなどどいう話が多い。


私の求めている釣は少し違っていた。

そもそも、自分が釣を求めているのかも怪しい。


例えば、50年前にこの筑後川にいたサクラマスは今もいるのだろうか?

オヤニラミをルアーで釣ることは可能なのか?

河口堰を超えた遥か上流でスズキは釣れるのか?

私が覚えた関東の釣は九州のこの地で通用するか?


釣から離れれば離れるほど、その疑問が幾つも次から次へと湧いてきて、確認せずにはいられない。

物事がどうなってるのか見たい、確かめたいという好奇心とある種の強迫観念が心を突き動かす。

これは趣味でもないし、遊びでもないし、暇つぶしでもない何か。


それがきっと私の釣だ。

それこそが釣だ。

釣における考えた事、確かめたい事の全ては自力で手に入れてきたから、ずっと何かを追い求めていたい。


魚種も釣り方という手法も、際限なくあるのが釣の世界。

終わりが無いのも釣の世界、終わりを決めるのも自分次第。

ただなぜ釣をするのか?なぜ釣るのかという釣をする意味を知る事は出来ない。

それが釣師の孤独たる所以だ。


そんな無限に続く自問自答の中で、時折素晴らしい魚に出会う事ができる。

素晴らしい仲間にも出会う事になる。

誰にも似ていない自分の釣を見つける事もできる。


魚が釣れたという喜びは、数少ない釣り仲間と分かち合う事が出来るとは思っている。

しかし、私が釣りたい魚と貴方が釣りたい魚はきっと違う。

同じ魚種だとしても、同じフィールドだとしても、違う。


難しい事は抜きに、純粋に釣を楽しめばいいとよく聞くが、情熱を取り返すことは出来ない。

あの時釣りたかった魚は、もう私の中にはいないのだから。


自分の中が抜け殻の時に、釣に誘ってくれる仲間の存在は大切だ。

嫌々でも釣はなんとか行けるものだから、そんな時は少し気楽に遊びの釣をすればいい。

確かめたい事など無いから、単純に釣をしているという事になる。


そしてまた、そんな時に今までに経験した事の無い、魚たちの意外性に出会う事もある。


今、欲しいのは突き動かれる何か。

忘れているのはその情熱か。

さて、今日も釣にでかけるとしよう。

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東洋式疑似餌釣研究所

疑似餌釣(ルアー フライフィッシング)のサイトです。 四季折々の美しく強かな魚達かいる。 情緒纏綿な水辺と人と魚の物語がある。 仲間の笑顔と空の蒼さそこには 忘れてはいけない大切な時間がある。 さて、どう釣りますか?