釣を止める時は来るのか

あれほどに夢中になった釣も、何時か心が離れてしまう事はしかたない事だ。


決着をつけるその時が来たとしたら終わらせる事が私にも出来るのだろうか?


釣を止めてしまう人がいる。


釣を止めることを考えた事も無くただひたすらに釣を続ける人がいる。


私も色々な理由で釣から離れて行く人を沢山見てきた。


同じように釣から抜けることも離れることもせず深みに嵌る人も大勢見てきた。


さて、自分自身はどちらの人間になるのだろうか?


その答えはその時が来るまでわからない。

きっと物事好きになるのには理由は要らない。

そして興味が無くなる理由も無いものかもしれない。


仮に嫌気が差すというのがもし釣りの世界にあるとするならば、それは人間同士の関わりの部分かもしれないし、身体的に不自由になる時に来るかもしれない。


魚が釣れないから止めたという人が稀にはいるけれど、それは釣れてる人という尺度に自分を当て嵌めたことによる嫉妬心であろう。


何れにしても、ただひとつ言える事は、釣も魚も、人も仲間も本当は離れては行かない。


離れてしまうのは何時も自分自身だ。


最近、私自身も釣りが好きである明確な理由がわからない。


ただ一人になって考えていることは、あの川やこの湖や遠くの海の事ばかりだ。


何も考えようとして釣を考えている訳ではなく、気がつけば釣が頭から離れないのだ。


昨今の釣は、私が考えてきた釣りから随分かけ離れた処に来てしまった気がする。


ひとつは釣場から、少年達の姿が消えた。

街から個人の釣具店が消えた。

そして良い釣雑誌も随分少なくなった。

そもそも何処にも読みたい記事が無い、誰も知らない新しい釣の世界が見えない。


いろいろな意味で釣が楽しくない。


少し釣に対して嫌気をまた感じ始めている。


釣りたいとか上手くなりたいとか、大物を釣りたいとか、有名になりたいとか微塵も思ってない。巡り会う仲間との時間の中で楽しい釣りが出来ればそれでいい、それ以上は何も望んでいない。 


その中でどうしても他人の行動は気にならざるを得ない。もちろん食材として確保しているのだろうけど、明らかに食べる量を超えた死んだ魚を並べて何が楽しいのだろう?と相変わらず思う自分が存在している。

良くある道具自慢ももう見飽きた。


テクニックだメソッドだリールのカスタムだ

リリースだバーブレスだラバーネットだという価値観も良くわからない。


メーカーが仕掛けたマーケティングに乗っかるのは、自由だし何でも良いが、毎年、毎年、

流行りに向いてるのか?魚に向いてるのか?


魚が減るほど釣らなければそれでいいだけの話じゃないのか?名誉の一匹を仕留めたとして、二匹目は本当に必要なのかと。


そんな事を考えているといよいよ釣りをするのも、釣りの話をするのも嫌になってくる。


釣り人に荒らされたフィールドを見ると哀しくなってくる。そしてそんな人が、釣り飽きたのか何なのか知らないけど、釣からまた離れて行く。


今の私は釣が出来る時間が長目にみてもあと残り30年あれば良い方だから一匹一匹を大事に釣る事くらいしか出来ない。


何度も釣という世界で自問自答を繰り返しても、答え等は存在しない、その哀しみを知れば知るほどに虚しくなって行く。


人生を終えてあの世に行ってしまった仲間たちへ、どうか私にこの先の釣を教えてくれ。



私にはわからない。

この哀しみを乗り越えた先にある光の存在を信じる事ができない。

あの頃、夢に見ていた今の景色は何処にも無く。
逆にあの頃が、夢の様に美しく見える。

釣の事は諦めて進め。

諦めてたどり着く先には釣があるはずだから。

あの世の仲間からそんな声が聞こえる気がする。



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東洋式疑似餌釣研究所

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