いつか終わる時が来るとは知っていた。
関東での生活と仕事と釣りは、静かにその時を迎えた訳である。
フィールドが変われば狙う魚種や釣りの中身は変わり、出来ていたこと、出来なかったことも変わるが、何も変わらないものがあるとするならば、自分自身の心根にあるもの。
それは気持ちや思考でもなくて、嬉しい事でも悲しい事でもなく、淡々として無色透明で固く光放つ輝かしいものでも無く、静かに熱を帯びた何かだろう。
何時も釣は気持ちの真ん中を捕らえたまま変わらず有り続ける様で、沸々と沸き上がる情熱でも無く、それはひたすらに無口だ。
関東にいた間は、もう二度とそこに立つことなど無いであろう川に、湖上に、森に行く事が出来た。そこでまた嘗ての仲間との釣りや語らい、新しい仲間との多くの出逢いを頂き少しだけ前に進む事が出来た。
ある意味、私の釣は私が導きだしたスタイルではなく。全て仲間から授かったものだ。
全て他者から学び身につけたものだ。
何時の時代も誰かが釣りを教えてくれた。
求めていれば必ずその世界にたどり着くものだから、何の心配もいらない。
ノイズのように溢れかえる偽りの情報の中で、正しいものを探して行く事は難しい。
釣りを歪んだ形でとらえている者達は未来で生き残る事は出来ない。
川の息吹を感じながら、一匹との対話を釣糸と釣り針で繋ぎ止める事が釣りであるとするならば、大きさや数等はどこにも必要ではない。自分自身の私欲を満たすような何かの為に魚を釣るとしたら、もしかしたら私もその淘汰されるべき一人になるかもしれない。
この世界のどこかに、本物の釣は必ず存在している。本物は目立つようなものでない。
ある意味、不恰好で地味で目に留まらないような些細な瞬間で生きてるかもしれない。
そんな釣師になりたい。
それを忘れた時に私の釣は終わる。
九州という土地で、また新しい釣りが始まる。だからこそ謙虚でありたいと願うのだ。
この先の釣りをするために。
東洋式疑似餌釣研究所
疑似餌釣(ルアー フライフィッシング)のサイトです。 四季折々の美しく強かな魚達かいる。 情緒纏綿な水辺と人と魚の物語がある。 仲間の笑顔と空の蒼さそこには 忘れてはいけない大切な時間がある。 さて、どう釣りますか?
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