12年前、突然綴り始めたブログ。
つい先日の事のような、それでいて遠い昔の事の様ような。
赤ん坊だった子供たちも中学生になり、生活も変化してまた自分の時間を取り戻せつつある。
現代の釣と私がかつて見てきた釣とその違いに違和感を感じながらも、魚釣に心を奪われたままで生きている。
釣文学なんて大袈裟なものはわからないが、釣を釣師としての生き様を言葉にして残す事が私の使命なのかもしれないと最近は思うようになった。
最近、釣仲間からネットで釣の事調べると、毎回の如く、東洋式の文字が出てくると言われる。
それなら本人に聞いたほうが早いから、調べる意味が無いと苦情を頂くのだが、情報を発信していない世の中が悪いのであって、私に苦情を言われてもお門違いだと本当に思う。
逆に東洋式疑似餌釣研究所が絡まないとしたら、最近の釣雑誌出てくる様な、なんちゃらフィネスとか最新のテクニックなどを検索して頂くと、この古びた黴臭いブログにたどり着かなくなるはずだから是非お勧めしたい。
そもそも私自身が、最近の流行りなどは知らない、最新のタックルなども知らない、有名プロにも興味が無い、興味があるのはこのルアーフィッシング、フライフィッシングのルーツや伝統という部分だ、既に失われたもの、失われつつあるものに光を当てる事だ。
日本のスポーツフィッシングが一般的に普及して50年を超えた。
パイオニアと呼ばれた人達は次々にこの世を去って行った、その時代を知る人も徐々に迎えのくる順番なのだ。
釣師は短命にて候という言葉がある、もちろん私の言葉だ。
黎明期にこの釣を広めたとされる多くの著名人は既にこの世には存在しない。
平均寿命よりも短い人が多い様に感じている、それもそのはずで、夜討ち朝駆けで釣場へ行き、ろくに睡眠を取ることも無く魚釣をして、大酒飲みばかりだ、健康的に長生きできるはずがない。
そんなツワモノも病気には勝てない、次は私かもしれないという事だ。
その昔、健康が趣味、釣は嗜む程度という先生がいたが確かに80歳を超えても現役で釣をされていた事を考えると、やはり釣のテクニックを磨く事よりも、長生きの秘訣を習った方が良いのかもしれない。
あと半月もすると渓流解禁になるので、今日はその準備をしながらぼちぼちと文章を綴っている。
相変わらず毎週の様に遠征をして大物を釣りまくるとかは私の釣には無い。
10代の頃に覚えた釣り方をひたすら磨いて行くだけだ。
テクニックやメソッドやルアーについて語ることも無いかもしれない、自分の住む近くの魚を、自分で考えた遊び方で楽しむだけで、特別な事は何も無い。
言葉にすれば研ぎ澄まされたロッドワークとか、キャスティングとかルアーセレクトとか何だとかあるのかもしれないけれど、空を見上げて風を感じて、せせらぎの中でルアーやフライを投げて、時折綺麗な魚が釣れてくれたら、それ以上もそれ以下も無く、その季節その時の魚釣は完結する。
釣行記というのならば、親切丁寧に釣場までの道のりや、ポイントやタックルの解説などの情報が欲しいという人もいるかもしれないけれど、私の釣など参考にはならないだろうから、そこは沢山魚を釣り上げる他所の誰かに任せよう。
地図を見て、釣場を予想して、実際に行ってみて、ダメならダメを確認して、釣れたらその理由を考えて、それがいいならここはどうだ?と世界を広げて行けば、自分の釣というのは洗練されて行くもので、誰かの釣を真似たところで、その釣をコピーしたところで、自分の釣は何時までも手に入らない。そして、自分の釣を手にしたならば、釣れなくてもがいている人に少しだけ教えてあげると良い、そうして仲間を得た時、自分の釣はもっと楽しくなるのだから。
私が過去の経験でつかみ取ったテクニックやカラーとかパターンはあるけど、それが明日も通用するとは限らないし、それは私が主観で得たものだから全てのアングラー通用するものとは違うはずなのだ。それよりもどうしたら楽しい釣ができるのか?を本気で考えて行きたいと思う。
今はなりふり構わず釣りまくる時期ではなくて、一瞬の喜びを大事に、仲間の笑顔が欲しい。
ブログ:東洋式疑似餌研究所はその為に存在して、今まで止めずに続いているのだと思う。
そもそも、何の文章構成も考えていないし、テーマすら曖昧で流動的なのであるが、ブログを始めた事で色々な釣師と出会い、思いもしなかった繋がりは生まれより一層、魚釣が楽しくなった。
若いころは文章を書くのがとにかく苦手だったけれども、書き続けると板に付いてくるもので、何となく思いは言葉にできるようになるから不思議だ。
ここまで続いてしまったら、もう終わらせる理由がみつからないけれど、昔の様な情熱を持ってないのは事実だから、ぼちぼちと淡々と続けて行くつもりでいる。
あと50年後、100年後、そのずっと先の未来に、私が憧れた釣という世界はあるのかはわからない。ただそれを誰かが残し伝えなければ確実に時代の波に飲み込まれて跡形もなく消えゆく。
大人しく無口な屍となり土に帰るか、爪痕を残して往生際の悪い終わり方をするのかを選ぶのか、それは自由であるべきだ。
私の知りうる限り、見てきた全ての本物の釣師は一見すると無口で不愛想だ。
誰にでも真実、その真髄を話そうとはしない、それは相手が理解できるのか否かを計り、話すべきか話す必要が無いかを見極めているようにも見える。
私が人生で巡り合えた沢山の本物達は、私に心を開いてくれ、釣の奥義を教えてくれた。
本当にそれは感謝すべき事に他ならない。
一つ言える事は、難しい人ほど真実を知っているがそれを簡単に話そうとはしないという事。
私はそうして知り得た事を、言葉にして伝える役目の人間であり、伝えるために自分のものにしなければならないので、当然それを自分の釣で実践してみる。
実体験から発生した事、体感した事こそが釣の真実であると思うからだ、雑誌やネットで何を調べてどれだけ頭でっかちになったとしても魚釣はそんなに生易しいものではなく、川の声を、空の色を、魚の息遣いを感じ取れる様にならない限り、本当の意味で釣ることなど出来やしない。
魚の溢れた誰でも釣れる易しい釣場に依存して、釣具屋の商売上のあれこれに踊らされて、魚を自分の腕自慢、その名声の為に釣るのならそれでもいいが、そんな釣は長くは続かない。
メーカーも熱狂的なファンもやがて跡形も無く去ってゆく、残されたのは魚のいなくなった、釣をすることを禁じられた水辺だけだ。
レジャーや遊びも結構、初心者や子供や女性が釣を楽しむのも結構、テクニックやスタイルを押し付ける前に、マナーやマインドをもっと伝えるべきなのではないのだろうか。
駐車スペースに気を付けるとか、地元の人に一声掛けて釣場に入るとか、ごみは持ち帰るとか、無暗に釣りすぎないとか、他のジャンルの釣り人に迷惑をかけないとか、自己責任の意味を考えるとか、怪我や遭難の想定をするとか、家族の立場を考えるとか、釣具買いすぎじゃないかとか、恩返しできてるかとか、感謝できてるかとか、自分を大切にしているかとか、色々考えて釣して欲しい。
色々な釣師を見て、色々な経験をして、色々と学んだけど、まだまだ出来ることがあると思う。
本物の釣師になるために、本物の釣を本当に楽しむ為に。
静かに淡々と釣を楽しむ事が心底好きな人種がいる、少数派であるかもしれないが、それは確実に存在する、そして誰よりも魚を釣場を魚釣における全ての事を大切にしている。
そんな貴方の為に私の文章があるとしたら幸いな事である。
12年間 本当にありがとうございます。
そしてこれからも宜しくお願いいたします。
東洋式疑似餌釣研究所
疑似餌釣(ルアー フライフィッシング)のサイトです。 四季折々の美しく強かな魚達かいる。 情緒纏綿な水辺と人と魚の物語がある。 仲間の笑顔と空の蒼さそこには 忘れてはいけない大切な時間がある。 さて、どう釣りますか?
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